33 歳でこの世を去った前田寛治 (まえた・かんじ/ 1896-1930) は、短い活動期間ながら日本の近代洋画界に大きな足跡を残した画家です。 彼は、詩的感性と西洋絵画の伝統を踏んまえた写実性の融合を追求しながら、
多彩に芸術を花開かせました。 本展は前田の生誕 130 年と、彼が設立に加わった一九三〇年協会 100 周年を迎える 2026 年を機に、密度の濃い制作をおこなった彼の画業の展開を追うとともに、一九三〇年協会の仲間たちによる出品作品も紹介し、前田芸術の意義を再検証します。
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前田は 1921 (大正 10 ) 年に東京美術学校を卒業、同年帝展に 《花と子供等》 が入選し、翌年 11 月に渡仏、2 年半ほど滞在します。 近代以降のフランス絵画を冷静に見渡しながら、クールベ、アングル、マネらの仕事を研究し、自らの絵画と思想を確立しようとしました。 また、友人であるマルクス主義理論家・福本和夫の影響による芸術論を打ち立て、労働者の姿を描くようにもなります。 |
本展は、前田寛治の作品を回顧するとともに、近代日本の若き洋画家たちが追い求め、築こうととしたものとは何だったかを、あらためて見つめ直そうとするものです。 最初に彼の作品を見たとき、わたしたちはその鮮烈さにすっかり魅了されました。 そして多くの人とこの感動を分かち合いたいと思ったのです。 会場に足を運んでいただければ、その魅力を理解いただけるはずです。 |
会期: 2026 7/4 〔土〕→ 8/30 〔日〕 |
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展覧会概要説明会 「生誕130年 前田寛治 ポエジイ と レアリスム」 |
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2026 4_17 プレス内覧会の説明会、プレスリリース 「生誕130年 前田寛治 ポエジイ と レアリスム」 図録よりの抜粋文章です。 |
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「前田寛治の作品に見られるふたつのポイント」 |
その1:ポエジイ |
目 次 / Contents |
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本展は、全体としては 141 点の作品で章展開され、その内 35 点はその時代の関連作家の作品が会場に展示されます。 |
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'2026 7_3 「生誕130年 前田寛治 ポエジイ と レアリスム」 報道内覧会展示風景・ギャラリートーク、プレスリリース、図録の抜粋文でご紹介しています。 |
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【第 1 章 “絵は詩である” / Chapter 1. “Painting is Poetrry”】 |
1869 (明治 29 ) 年 10 月 1 日、前田寛治は鳥取県東伯郡中北条村国坂 (現 東伯郡北栄町国坂) に前田宇蔵とゆきの次男として生まれました。 国坂は標高 93.9m の茶臼山に寄り添う集落で、寛治はとりわけ画業初期に郷里を多く描き残しています。 画業を見渡しても際立って個性的な色感の持ち主であった寛治は、自身の 「青黒い色調」 が山陰の風土特有の色であることを自覚しており、生まれ育った環境からの影響の強さを物語っています。 倉吉中学校 (現 鳥取県立倉吉東高等学校) を卒業後、第三高等学校工科 (現 京都大学工学部) の受験に失敗したことを契機に、 幼時から好んでいた絵画の道に転向し、1916 (大正 5 ) 年には東京美術学校 (現 東京藝術大学美術学部) 予備科 (西洋画学科志望) への入学を果たします。 本章でご紹介する学生時代の初期作品を見渡せば、寛治が様々な描法や造形様式を矢継ぎ早に、しかし熱量をもって試みていることがわかります。 1921 (大正 10 ) 年には、《花と子供等》 (no.1-16) で第 3 回帝国美術院展に入選を果たしました。 それは鮮烈な画壇デビューになったと同時に、寛治にとって大きな自信に繋がったことでしょう。 寛治はこの頃から自作の詩やエッセイを盛んに記しており、その一部は郷里の恩師・中井金三を中心に倉吉で結成された芸術運動を目指す同人会 「砂丘社」 の活動に参加するなかで発表もしています。 美校在学中のノートには 「絵画は詩である、詩がなくていい絵は出来ない」 と書き残しています。 寛治は自身の内面にほとばしる 「詩=ポエジイ」 こそが絵画制作の根幹をなすものであることを早くも感じとっており、事実、これが彼の画業に通底する信念となりました。 |
左・ No.1-4 前田寛治 《父の像》 1920 年 油彩、カンヴァス 57.8 x 49.3 cm 個人蔵 / ・No.1-5 前田寛治 《母の像》 1928 年頃 油彩、カンヴァス 162.0 x 97.0 cm 愛知県美術館 / ・No.1-16 前田寛治 《花と子供等》 1921 年 油彩、カンヴァス 80.5 x 117.2 cm 鳥取県立美術館 / 右・No.1-15 前田寛治 《立てる子供》 1922 年 油彩、カンヴァス 117.0 x 80.5 cm 鳥取県立美術館 |
右・ No.1-15 《立てる子供》 姪をモデルにして制作された本作品により、前田寛治は 1922 年 3 月の平和記念東京博覧会で西洋画褒章を受けた。 在学中より東京美術学校の同級生・石河光哉の影響でキリスト教に傾倒していた寛治は、1921 年 12 月に石河の故郷である長崎を訪れてラゲ僧正に面会し、「信仰が力だ」 と記している。 年明けには大原コレクションのアンリ・マティス、ポール・セザンヌらの作品に感銘を受け、興奮冷めやらぬ時期に描かれた意欲に満ちた作品である。 うつむき加減の田舎の少女はバルビゾン派が描いた農民たちの姿とも重なり、「祈り」 や 「思索」 といった精神性を湛えている。… / ・ No.1-16 《花と子供等》 前田寛治は 1921 年 3 月に東京美術学校を卒業し、4 月からは同校研究科に在籍していた。 同年 8 月には倉吉中学校で個展を開催、71 点の作品を出品するなど旺盛な制作を見せる。 本作は個展の後、同年 10 月の第 3 回帝展に出品して初入選し、洋画壇デビューを飾った記念碑的作品である。… |
【 前田寛治の西洋絵画受容について 】 ―図録よりの抜粋です― |
―中井金三の存在― 中井金三 (1883-1969 [明治 16-昭和 44]) は鳥取県久米郡中川原村 (現 倉吉市中河原) の出身で、東京美術学校西洋画科で黒田清輝に師事した洋画家です。 同科の同窓生には、藤田嗣治、田辺至、同郷の香田勝太らがいました。 中井は 1910 (明治 43 ) 年に同校を卒業後、家庭の都合で止む無く帰郷し、1913 (大正 2 ) 年 12 月に倉吉中学校 (現 鳥取県立倉吉東高等学校) に図画教師として赴任しました。 寛治は、在学中、中井の薫陶を受けていたわけではありませんが絵画の道を選んで美校を目指し、1915 (大正 4 ) 年に半年間ほど中井の自宅で木炭のデッサンの手ほどきを受けました。 ―デッサン訓練と画家像の形成― 前田寛治の西洋絵画受容は、渡欧後にヨーロッパの絵画を直接研究しとことだけに始まるものではありません。 その出発点には、中井金三に学び、黒田清輝が主宰する白馬会葵橋洋画研究所で受けたデッサンの訓練にありました。 対象を観察し、形態や妙案、量感を的確に捉えることを重視するこうした学習は、受験対策として、また東京美術学校入学後のカリキュラムとして、当時の画学生が必ず通る道でした。 石膏や人体の木炭デッサンを基礎とした教育こそ、寛治にとって最初の 「西洋絵画」 との出会いであり、後の写実的描写の基盤となりました。 |
左・ No.1-7 前田寛治 《摩耶山麓》 1916 年頃 油彩、カンヴァス 44.0 x 59.0 cm 倉吉博物館 / ・No.1-3 前田寛治 《マイハウス》 1917 年頃 油彩、カンヴァスボード 17.7 x 22.5 cm 個人蔵 / ・No.1-12 前田寛治 《子供の像》 1921 年 油彩、板 33.0 x 23.8 cm 個人蔵 / 右・No.1-13 前田寛治 《麦わら帽の子》 1920 年頃 油彩、板 23.7 x 33.2 cm 横須賀美術館 |
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'2026 7_3 「生誕130年 前田寛治 ポエジイ と レアリスム」 報道内覧会展示風景・ギャラリートーク、プレスリリース、図録の抜粋文でご紹介しています。 |
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【第 3 章 帰国後の活躍―実在感を求めて / Chapter 3. After Returning to Japan ― In Pursuit of Reality】 |
1925 (大正 14 ) 年 8 月下旬、前田寛治は 2 年 5 ゕ月に及んだパリ留学から帰国します。 その 2 ゕ月後には第 6 回帝国美術院に出品。 《J・C嬢の像》 (cat. no. 2-53) が特選第三席を得たことで、寛治は画壇であらためて注目を浴びることになります。 在パリの知友・中野和高に宛てて 「日本の画壇に恐るべき敵なし」 と書き送っていることからも自信の程が窺い知れますが、その後も帝展を舞台として 《裸体(現 裸婦)》 (愛媛県美術館蔵) の入選、《横臥裸婦》 (cat. no. 3-6) の特選を経て、1928 (昭和 3 ) 年に帝展推薦 (無鑑査出品資格)、翌年には審査員に推挙され、瞬く間に名実ともに画壇の寵児となったのです。 寛治の躍進は、パリ留学時代に深化させ構築した新しい絵画観――レアリスムの追求に裏付けられるものです。 1929 (昭和 4 ) 年に発表した 「写実技法の要訣」 のなかで寛治は、絵画の写実的要件として、 質感・量感・実在感をそれぞれ得ることを揚げています。 とりわけ 「実在感 (リアリテ) あるいは統一感」 を表現することは、活き活きとした生命を表すために必須のものとして強く主張され、ここにおいて寛治の独自の写実論が確立されました。 |
左・ No.3-2 前田寛治 《少女と子供》 1927 年 油彩、カンヴァス 145.5 x 112 cm 鳥取県立美術館 / ・No.3-1 前田寛治 《C 嬢》 1926 年 油彩、カンヴァス 116.6 x 80.5 cm 個人蔵 / ・No.3-13 前田寛治 《赤い裸婦》 1928 年 油彩、カンヴァス 50.3 x 60.6 cm 鳥取県立美術館 / ・No.3-16 前田寛治 《籠の静物》 1929 年 油彩、カンヴァス 50.0 x 60.5 cm 鳥取県立美術館 / 右・No.3-6 前田寛治 《横臥裸婦》 1927 年 油彩、カンヴァス 110.5x 162.0 cm 鳥取県立美術館 |
左・ No.3-2 《少女と子供》 第 8 回帝国美術院展出品作。 滞欧中に制作された女性の坐像群が、色数を抑えた静謐で古典的な画風を特徴としていたのに対し、帰国後に描かれた本作では子どもが登場し、暖色を基調に筆触を残した生命感あふれる画面へと変化している。… / 右・ No.3-6 《横臥裸婦》 …留学中の寛治は、当地の女性をモデルに幾つかの横たわる裸婦像を描き、帰国後は日本人女性をモデルに様々なポーズの横たわる裸婦像を描いている。 …本作品は寛治の裸婦像として唯一の帝国美術院特選受賞作である。 |
【 前田寛治の婦人像の特徴 】 ―図録よりの抜粋です― |
―裸婦像― 寛治が描いた裸婦像で最も初期のものとしては、東京美術学校時代、1920 (大正 9 ) 年頃と推測される立っている裸婦を描いた作品で、その後、集中的に裸婦像が描かれるのは留学中であり、モデルとなったのは西洋の女性たちです。 その顔立ちや体格を見ると、モデルは複数おり、年齢もさまざまなように見えます。 今に残る膨大な数の留学期の裸婦素描が物語るのは、西洋絵画の伝統摂取を目指していた寛治の熱心な研究姿勢です。 ―着衣像― 着衣の婦人像については、留学する前から郷里の老婆や和装の婦人像を、留学中は恐らく裸婦モデルなども務めた女性の顔や上半身像を、そして椅子に座った静謐で古典的な全身像などを多く描いています。 |
左・ No.3-9 前田寛治 《横臥裸婦》 1928 年 油彩、カンヴァス 97.0 x 162.0 cm 鳥取県立美術館 / ・No.3-10 前田寛治 《伏臥裸婦》 1928 年 油彩、カンヴァス 113.0 x 145.0 cm 鳥取県立美術館 / ・No.3-11 前田寛治 《裸 婦》 1928 年 油彩、カンヴァス 129.0 x 192.5 cm 東京国立近代美術館 / ・No.3-15 前田寛治 《静 物》 1926 年 油彩、カンヴァス 73.0 x 100.0 cm 東京都現代美術館 |
右・No.3-11 《裸 婦》 第 9 回帝国美術院展出品作。 自作解説に 「なるべく重々しい無表情の、物質的の感覚を持った肉体を描こうとしました」 とあるように、暗い画面に浮かび上がる身体は、いわゆる裸婦の理想的な美の基準から大きく逸脱し、異様な存在感を湛えている。…前田寛治自身が 「曲直柔剛の配列」 に苦心したと記しているように、曲線と直線、柔らかさと硬さを対置しながら、肉体を量感ある存在として構築しようとした作品である。 |
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前田 寛治 MAETA KANJI 略年譜 (1896-1930 [明治 29-昭和 5]) ―図録の略年譜より抜粋しています― |
1896 (明治 29 ) 年(0歳)| 10 月 1 日、鳥取県東泊郡中北村 (現 北栄町) 大字国坂 492 番地に、前田宇蔵、ゆきの次男として生まれる。/ 3 歳上の兄・秀三、4 歳年下の妹・すみゑの三人兄妹。 |
1923 (大正 12 ) 年 2 月 9 日、前田寛治は東京美術学校時代から憧れたいたパリの地に初めて足を踏み入れました。 当時のパリにはすでに川口軌外や木下孝則、里見勝蔵、中山巍、小島善太郎ら同世代の若き日本人洋画家たちが留学しており、寛治の渡仏以降も宮坂勝、佐伯祐三、中野和高らが同地に渡っています。 およそ 2 年 5 ゕ月におよんだ留学生活のなかで、寛治は自身の作品制作に励むかたわら、志を同じくする仲間たちと親密に付き合い、異国で生活する孤独感や美術作品の鑑賞体験から得られる感動を共有しました。 こうした仲間たちを寛治は 「パリーの豚児等」 と親しみを込めて呼び、問題のエッセイでもその熱い友情にみちたエピソートをユーモラスに記しています。 |
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参考資料:「生誕130年 前田寛治 ポエジイ と レアリスム」 プレス内覧会、図録、Press Release.、チラシ他。 |
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